人形

夜明け前の街路を歩いてゆく男があった。空に月はなく、街灯もその道には少なかったが、男はさらにその街灯も避け、暗闇を選んで歩いていた。街路樹はすでに葉を落とし、石畳の冷たさが靴底から伝わって足裏をしびれさせた。彼は古びたハンティング帽を目深…

小舟

灰色の薄明のなかに、鉛色の川が流れていた。雑草に覆われた、誰もいない川辺を私は歩いていた。 ただひとり、真っ白な衣装を身にまとった乙女が、川岸から小舟を出そうとしている姿が見えた。近付いてみると、ごく華奢な、美しい娘であった。髪は黒く長く、…

青空

君を殺そう。もはや君が君であり、私が私であるという、二人を隔てる障壁は存在しなくなるだろう。君を扼殺する私の手に、私に抗う君の渾身の力、恐怖にたかまる君の脈、君の中で狂奔する血の熱さが伝わり、それらが失われるまぎわの極点において、君の生命…

黄色い花

花、花、花。私のまわりに見渡すかぎりの黄色い花。当惑して立ちすくむ私のまわりに咲き誇る無数の花。地平のかぎりに咲き乱れる大輪の花。ここがどこであるのか知らない。どうしてここへ来たのかおぼえていない。ここへ来る前のことはすべて忘れてしまった…

十字架

明るい広間に、何もなく、ただ十字架がひとつ立っていた。そこにかけられていたのは、私自身であった。私が、十字架にかけられた私自身を見上げていた。十字架上の私の身体の、いたるところから血と膿が流れていた。その身体は白い薄衣をまとっていたが、薄…

夜の森

あなたの愛した森に、あなたの愛した美しい闇が、今夜も訪れた。夜々変わらず、昔から、またこの先も、変わることなく繰り返し訪れる、深い闇と静謐、ただ、あなただけがここにいない。あなた自身もまた、この先も変わることなく、夜ごとに、この美しい森の…

夜の海

あなたは海を見ている。あなたの静かなまなざしが、眼鏡越しに、硝子窓の外の海へとそそがれている。窓の外は夜で、強い風が吹いている。空は雲に覆われているが、ときおりその隙から月の光が淡くさし、海面をほのかに照らす。風にあおられた白波が見える。…

薔薇

幼い頃の私に与えられていた部屋、それは数年の後には私の両親の寝室になったのだが、いずれにせよ今は存在しないその部屋に、西向きの窓からの明るい夕日がさしこんでいた。それで部屋の中は赤みがかった金色の光に満たされていた。いたるところ黄金で装飾…

浜辺

私は浜辺を歩いていた。朝日が昇る前の、すみれ色の薄明かりが空に広がり、海に映り、砂浜をほのかに照らしていた。私のほかには誰もいなかった。波の音のほかには何も聴こえなかった。風は水平線のかなたからごく静かに吹いていて、防風林の松もかすかな葉…

理科室

窓ガラス越しにさしこみ、リノリウムの床にはねかえり、室内のあらゆる器物に冷たい光沢をあたえる、五月の午後の太陽。今年この小学校に入学したばかりの男の子が、誰もいない理科室の、まばゆい光のなかに一人で立っていた。校舎のはずれ、四階の片隅の第…

折り鶴

山の奥深くに寂れはてた寺があり、そして他に何もなかった。寺にいたる唯一の道すらも草に覆われて消えていた。ところどころに剥落のある白壁のまぎわまで、森の木々が迫ってきていた。壁といわず屋根といわず、いたるところに蔦が這いのぼっていた。かつて…

石畳

空は青く、青く、青かった。白い石畳が真夏の陽光に照りつけられて燦爛と輝いていた。それがどこであったのかよく分からない。古代神殿の庭のようだった。が、それはありえない。現代である。現代の最もありふれた公共施設の敷地の一角である。 まわりに人が…

桃園

日の光はぬくもりを帯びてきていたが、風はまだ冷たかった。山の木々はほとんど冬枯れの姿のままだったが、すでに雪は溶けて、ところどころに下草の芽が伸びはじめていた。よい天気だったが、春がすみのために青空がいくぶん白っぽくみえた。山の奥、人里か…

河畔

不思議なものを見た。 明るい林のなかに、あまり幅の広くない川が真夏の日の光を浴びながら流れていて、その岸辺の樹から太い枝が一本、川のうえへ大きく張り出し、枝先に向かって次第に垂れ下がって、一番末のほうはほとんど水面に接しかけていた。濃緑色の…

病院

私は幼い子供だった。近くには、まだ若かった私の母と、母の幼なじみの女性との姿があった。そこは大きな病院の、総合受付の前の待合室であった。母の女友だちは白衣を身にまとっていた。彼女はこの病院に勤務している薬剤師なのだったが、たまたま訪れた私…

(無題)

魂の地上的属性と天上的属性について。 夜のバス停で、私は帰りのバスを待っていた。その晩、夜空はいつになく暗く感じられた。月も星も見えなかった。決して街明かりに乏しい場所ではなかったのだが、それら一見したところ華やいだまぶしさも、いくらか視線…

(無題)

異常な興奮状態。あらゆるものに苛立つ。あらゆる相手に食ってかかる。真夜中の雨のなかを歩きまわる。これといって理由もなく。そんなことはあるまい、何か理由があるはずだ、よく内省して問題点を発見し解決せよ、などと注意されそうな気がしてあわてて内…

荒野

少女は荒野に立っていた。 中学一年の夏休みの終わりに、家族揃って自家用車で旅行をしていた、その途中で休憩を取るために車を止めたのである。彼女以外の家族たちは、車のすぐそばの路上で缶ジュースを飲みながら楽しげに語りあっていた。少女ひとりが離れ…