盛夏

日輪の馬車が空の高みを駆けてゆく、夏である。私は怠惰に地面に横たわり、陽光に肢体が灼かれるに任せている。馬車の蹄にかかって倒れ、立ち上がる気力もなく、このまま朽ちてゆくつもりである。首を廻らしてみれば、土の上には虫けらども、小さなとかげ、…

埋葬

懐かしい高校の校舎である。私がいた頃と何も変わっていない。ただ、誰もいない。静まりかえった廊下に、私の足音ばかりが響いている。どの教室にも人影はなく、整然と並んでいるばかりの机の上を、開け放たれたままの窓から、白いカーテンを揺らしつつ昼下…

私の部屋

琥珀色の薄明かり、これは懐かしいものだ、幼い私の寝床のそばに灯っていた常夜灯の光だ。それがこの暗い部屋に灯っているのだが、この部屋がどこなのか分からない。幼い私の寝室ではない、もっと古い建物の一室、しかし懐かしい。もしかすると覚えていない…

秋の野原で

秋の光のきらめく野原で、孤独な少女が神に出会った。吾亦紅や松虫草を揺らす風のなかに、白くあえかな神の姿がたたずむのを彼女は見た。おぼろな面影が優しく微笑むのを見た。知らない面影、しかし懐かしい面影であった。彼女はそちらへ歩み寄り、しかし、…

清祓

喜ばしきかな! 私はどこにもいない。消えてしまった。もはや私を照らす日の光はなく、私の姿を映す水の面もない。風は私といかなる関わりも持たない大地の上を吹いてゆく。大地には草が茂り、花が咲く。すべてが、かつてよりも軽やかになった。私を支える必…

鳩笛

小学校の物置の、奥の壁際の棚の上に、幼い少女の姿をした人形が座っている。あきらかに長い間、誰からも構われることのなかった人形である。埃をかぶり、衣装はいたみ、肌は変色して青灰色がかってみえる。四肢のつなぎ目が少し緩くなっているようで、首は…

足あと

眠いけれども寝つかれず、私はベッドから身を起こし、すぐ近くにある窓のカーテンを少しだけ開いて、外を見た。ホテルの上階から見下ろす、この小さな町は、もう寝静まっている。人影はほとんどなく、走る車もまばらである。車道の信号は点滅を続け、融雪装…

よじれた顔

新しい家の窓からは森が見えた。幼い彼女はよく森でひとりで遊んだ。両親の仕事の都合でこの地へ移ってきたのである。少女の生まれた町からははるかに遠く、彼女には、ここで話されている言葉がほとんど分からなかった。両親にさえ理解できないときもある言…

老木

年老いた大きな木が、節くれだった太い枝を青空にのばしている。私は木の根もとに座り、その枝ぶりを見上げている。木の葉は黒々と茂っているが、枝の先のほうの葉は日の光を透かしてエメラルド色に輝き、風にかすかに揺れている。まわりには誰もいない、静…

讃歌

讃えよう、何ものでもないそれを、何をするでもないそれを、ただ降りそそぐのみの早朝の光を。真新しく、白く、今しがた夜の闇から生まれ出たばかりの嬰児であるそれを。やがて始まる人間たちの営みに、彼らの野心と運命とに、まだ関わりを持たないそれを。…

病院にて

診察室で、医師は心電図のモニタを眺めながら、難しい顔をしている。診察台に横になっていた私は、体のあちこちに貼りつけられた電極をわずらわしく感じながら、起き上がり、医師の背後に立ってモニタをのぞきこむ。医師は私のほうをちらと見て、困った顔つ…

過失

眠っていた。何かしなくてはならないことがあるのだと、心のどこかで思いながら、いつの間にか深い眠りに落ちていた。私は飛び起きたが、頭はまだ半ばは眠っている。しなくてはならないことが何であったのかも思い出せないままに、ただ後悔と焦燥に追い立て…

小舟

机の上に幾何の問題集は開いてあるものの、先刻から少しも進まない。嫌いな教科というわけでもないのだが、解く気力がわいてこない。少年はうんざりして立ち上がり、窓を開けた。その部屋は海のほとりの家の二階で、開いた窓からは真夜中の浜辺と海とが見え…

医者たち

当時その大きな古い家はまだそこにあって、祖母が一人で暮らしていた。毎年、盆と正月には必ず、少女は両親に連れられてその家に泊まりにいった。しかし小学校の三年生のときに祖母はこの世を去り、それから一度も行かないまま、その家は取り壊されてしまっ…

黄金の矢

私の生まれる少し前のことだ。私はひとりの若者の隣に立っていた。私と彼とは、ともに雲の彼方を眺めていた。とはいえ私たちが立っていた場所が、すでに雲の上だったのである。雲は私たちの足もとに広がり、私たちのまわりに漂い、雲の下にはまた雲が、幾重…

彼についての試論

彼は来る。しかし彼はそこにはいない。彼は形姿を持たない。彼を見ることはできない。しかし彼は来る。来ている。そこに、と指し示した時点ですでに彼はそこにいない。しかし彼が来ていることは分かる。私の眼に映るのではなく、私の心に、じかに。 私の眼に…

荒蕪

夜ごと私に語りかけてくれる木々が、今夜はなにも語りかけてくれない。ほかの夜々にはあれほど生気に満ちていた森の景色が、今夜は荒涼としてみえる。しかし、それは実は私の錯覚なのである。彼らは普段と変わりはしない。ただ私自身の心がおし黙っているの…

懐旧

久しぶりだね、どうしてる。そう私は過去の私自身に呼びかける。遠い昔の、懐かしい風景のなかの私に。当時の私は、いつもどことなく具合が悪く、なにがなし満たされず、不幸せな気分で暮らしていたものだった。にもかかわらず今になって思い出されるものは…

白い刃

不安は突然に、場所を選ばずに訪れる。道を歩いていて突然、不安に襲われることがある。不安の理由、あるいは理由らしい理由のない不安のこともあるが、ともあれ理由とは関係なしに、そんなときには私は、道のいたるところから無数のナイフが私のほうへ向け…

木々が歌う

夜になると、木々が歌い出す。大通りの街路樹さえも、真夜中ともなれば歌い出す。風に吹かれる枝のざわめき、ではない。風のない夜でも歌うのだから。暗闇の中で、魔のように美しい声で歌うのだが、世の人々の多くがそのことに気付いていないらしいことを、…

白黒模様

ごく小さな単純なモチーフの、白いのと黒いのとを交互に、際限なく繰り返しプリントした布で作った服を、私が幼い頃の母はよく着ていた。そのモチーフは本当に小さなものだったから、もしかしたら大人たちの目には、白と黒とが混じり合って、あたかも灰色の…

ゆるやかな落下

何者かが背後から私を拳銃で撃った。それは幸福な夕暮れの出来事であった。なにが幸福であったといえば、ほかならぬその銃撃である。その晴れやかさたるや、私の胸部を貫通した銀の銃弾が、そのまま私の眼前で白い鳩となって、空高く飛び去っていったほどで…

十字架

ふと、窓の外を見る。真夜中である。空には雲がかかっていて、月も星も見えない。古びた家の立ち並ぶ、田舎の住宅地。人々は寝静まり、街灯のほかに光というほどの光はない。見慣れた景色である。夜々、見るともなしに見てきた景色である。だが今夜の私の目…

来訪者

天気がよかったので、鳥籠を庭木の枝にかけてやり、私はその木のすぐそばで、庭と道路とを区切る柵にもたれて立っていた。鳥は籠のなかを跳ね回りながら歌った。道路の幅は狭く、人通りも少ない。里山の木々のあいだを縫いながら、いくらか距離をおいて建つ…

夏の朝

僕は、何を書こう? 書きたいことがあって、こうして机に向かっているのだ。にもかかわらず、いつまでたっても鉛筆は動かず、白い紙は白いままだ。時間だけが刻々と過ぎてゆく。真夜中に、僕ひとりだけが目を覚ましている。静かな部屋に、時計の音ばかりが耳…

恩寵

暗い部屋のなかで、私のまわりの床だけがぼんやりと白くみえる。あたかも雪の降る真夜中に、暗がりのなかで、あたりに積もった雪だけがぼんやりと白くみえるように。いったい部屋がどれほどの広さなのか、窓はあるのか、天井はどれほどの高さであるのか、な…

山鳩

子供の頃、私はいつも一人で遊んでいた。友達は誰もいなかった。しかし私は寂しいと感じたことがなかった。一人で遊ぶのが楽しかった。なぜ、ほかの子供たちが群れをなして遊ぶのか、私には分からなかった。一人で遊ぶほうがずっと楽しいのにと思った。私は…

管絃船

日はまだ昇らない。月もない。暗闇の中に、波の音と、彼女の小さな足音が聞こえる。彼女は手探りで歩いている。幾度も転んだ彼女の足は、傷つき、血が流れている。波の音が聞こえてくるほうに、ともし火がひとつ見える。そのともし火が、招いているような気…

花文字

赤い布で覆われたミイラがある。黒みをおびた、凝血を連想させる赤である。太い毛糸で織られた厚い織物で、頭からつま先までがゆるく巻かれているが、顔は露出している。口を大きく開いたまま、枯草色にひからびている。声のない叫びを永遠に叫びつづけてい…

早速のお返事ありがとうございます。 さて問題の件ですが、われわれの肉体というものは、要するに「卵」ではないかと思うのです。かつて私は、自分の肉体に、いや、すべての人間の肉体に、何かが欠けている、という印象をぼんやりと抱いていました。そしてあ…